オルタナティヴでいこう! ~告知ブログ
人は時に壁にぶつかる。でも、視点を変えれば、「想定外」の解決策が見つかるのさ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

判断の主体を奪う人々 ~自己決定力へ

 先週末、大阪で講演を行った。
 教育委員会、PTA、教職員が三位一体になった団体からのお招きだった。

 こういう反目しがちな立場の大人が「地域の子育て」に一丸となって取り組もうという姿勢は、買いだ。

 しかも、いまどきの子どもたちの現実を寸劇で見せているユニークな取り組みも、忙しい大人たちにとって、子どもの当事者性に迫る試みとしては、とても興味深いアプローチにようにも感じた。

 でも、実際に寸劇を見てみると、「うん?」と首をひねりたくなるシーンもあった。

 たとえば、「ケータイ依存」という寸劇では、何時間も友達と電話してるギャル娘(大人が演じる)がオカンから注意されたら深夜までしゃべり、オカンが寝静まったら夜な夜な徘徊し、気がつけば派手なカッコになってるという「非行のプロセス」を見せている。

 日常にひそむ「問題」がここにありますよ、と言いたいのだろう。
 しかし、それはケータイという新しいメディアのせいなのか?
 そもそも、家に一つの電話しかなかった時代でも、親のいない時間帯に連絡をとりあう思春期を過ごしてきたのではなかったか?

 いつの時代でも、子どもにとって親に言えないことはあるし、家では話しにくいことだってある。

 そうした子どもの視線を無視する形で、いきなりケータイによる長電話と夜間外出を「問題」にしてしまうところには、あらかじめ親や教師という教育者が(教育されるべき)子どもに対して善悪を判断してやればいいのだ、という傲慢さが垣間見えた。

 多くの子どもは、善悪の判断くらいできる。
 長電話も夜間の無断外出も、それが決して良いことだとは思っていないし、親を心配させたり、それによって説教を食らうのも良いことだとは感じていない。

 それでも、そんな「良くないこと」をしないではいられないのは、それなりに理由があるだろう。

 そこに踏み込まず、「これは悪いことです。こんなことを続けたら派手なカッコの非行に走ります」と伝えて、大人どうしで納得しあっても、当事者である子どもには何ら響かないだろう。

 それとも、芝居をする側の大人が、それを見る側の大人に対して教育が必要だというのだろうか?

 僕の中には、「?」マークがいっぱい生まれた。

 それは、抵抗感ともいえるし、「行政と民間と教職現場が三位一体になっても地方の子育てにおけるコンセンサスのありようはまだこの程度にすぎないのかもしれない」という虚無感かもしれない。

 だから、この集まりの最後の演目である僕の講演では、判断の主体性を子どもから奪わないようにしようよ、という話をした。

 たとえば、リストカットをしている少女がいる。
 親は心配し、「切るな」といきなり言いがちになるし、精神科医は「病気です」といきなり薬を出したりする。

 しかし、「リストカットは悪い」と十分に理解しているのは親とか医者とか周囲のだれかではなく、当事者である子ども自身であることに、まず周囲の人間が気づくことが大事だろう。

 気付けば、わざわざ「切ってはいけません」とか「切らないで」というセリフを言う必要はなく、「自分を傷つけることはいけない」なんていう、誰もが否定出来ないような正論を振りかざして子どもを追い詰めることもなくなる。

 「切らない」という正論に導くためなら、むしろその子があらかじめ明るい気持ちになれる趣味の話にじっくり付き合い、関心を持ってあげることが、切る行為を忘れさせることになる。

 でも、「切らないで」とか「この薬を飲んで」とか言う人は、自分自身の役割を果たすことにしか関心がなく、目の前の人間が本当は何に興味をもっているのか、何によってワクワク生きられるのかについて関心を持たないし、その子自身にとって関心のあることにすら興味を持たない。

 相手がすごく関心を持っていること。
 その話にこそ、食い付くべきだと僕は思う。

 そこに関心を持たないで、「この子はいつまで私を心配させるのかしら」という自分自身の不安の解消にしか関心を持てない人は、結局はその子の当事者性に配慮していないのと同じなのだ。

 実際、このように、相手が持つ事情に踏み込み、理解しようという構えが話を聞く側に足りないと、ともすれば、自分の興味あることしか聞かないことになる。

 だからこそ、相手の苦悩は延々と続き、「問題」はエスカレートし、話を聞いたつもりになっている人をさらに悩ませ続けることになるのだ。

 こういうことが起こるのは、大人の側に人の話を聞くだけの時間的な余裕や、何時間も相手する体力がないから。
 しかし、そういう自分自身の問題に思い当たらない人が多いので、子どもはいつの時代も「大人はわかってくれない」と感じるものなのだ。

 もっとも、精神科医や教職員というのは、医学や教育界の内側の論理しか知らない。

 リストカットなんて、神奈川の某有名私立高では、生徒の半分程度が経験しているくらいポピュラーなものだから、その行為を見つけただけで精神病を疑うなんて、あまりにも世間知らずなのだが、精神病理と社会病理の違いを十分に理解している医者は今日ではほとんどいないし、自分の財布を肥やしてくれる患者をみすみす逃す人もいないので、とりあえず全員患者にしてしまう医者の問題が少しずつメディアに取り上げられるようになっている。

 簡単に言えば、医者は医療オタク、教職員は教育オタクになっているのだ。
 その世界しか知らない人は、本当に困る。
 なぜなら、専門知識で救えるほど、現代の人間は単純にはできていないからだ。

 自殺防止の問題にしても、精神科医にばかり金をばらまいたところで自殺者数は減らないだろうし、学者ばかり集まったところで学問オタクのアプローチしか持ち得ないだろう。

 こうしてみると、判断の主体として自立する(=誰かに自分が判断されていることに敏感になる)には、自分が何かを語ろうとする際に、その話題について「自分はその当事者なのか?」と自問することが避けられないことがわかる。

 自分のすることくらい、自分で決める。
 自分がしていることの善悪は、まず自分で判断する。
 そういう自己決定力を養わないと、誰かが自分の言動に対して行う判断に対して自意識的に悩むようなことにとらわれてしまうだろう。

 他人はどう思うだろうか?
 もちろん、それは大事だ。

 でも、もっと大事なのは、「自分は自分の言動に対してどの程度本気で言っているのか」と自問し、自分の言動を誇りあるものに育てていくことだろう。

 誰かに判断の主体を奪われたままでは、気がつけば、世間を味方にするような言動しかできない人間にしかなれない。

 でも、世間が君の人生の選択の結果に責任を持ってくれるか?
 ありえない!!!

 みんなにとっての「良い子」であり続ければ、自分自身にとって「よくわからない子」になってしまうはずだ。

 そんな生き方してて、面白いか?
 面白いなら、どうぞ。
 僕はとめない。

 今日の日本、学校や社会は、「よくわからない子」を量産しておいて、大人になる頃には「境界性人格障害」なんていうレッテルを貼って「問題」にしてしまtっているけれど、教育者や医者には加害者意識なんかないだろう。

 だって、「よくわからない子」という育ちをしてきた人が大人になったんだから。

 目の前に暴行やひどいいじめがあったら、殴り合いをしても、周囲に嫌われても、目の前で止める。
 そういう勇気を問われるシーンは、思春期にいっぱいあったはずだ。

 しかし、僕が中学生になる頃に校内暴力が全国に蔓延し、学校は警察を校内に入れた。

 子どもがそこで学ぶ機会を奪い、品行方正な「良い子」でなければ許容しない無菌室のような教室になってしまった。

 当然、いじめはアングラ化し、教師や親の見えないところでしかできなくなった。
 ネットはその一つにすぎないし、そもそもネット社会は大人の経済社会が用意したものだ。

 僕ら大人は、「良い子」でなくても許容する文脈と施策、インフラや文化を担う必要があると思う。

 僕はそういう構えで本を作ってきた自負があるけど、まだまだ仕事が残っている気がする。

 いつか、学校の副教材になるような教科書を作ろうかと思ってる。
 学校の社会の教科書よりも、もっと面白く役立ち、自分が学ぶ意味が納得できる教科書を作ってみたい。

 当事者の生徒たちが、学校で指定されたものよりも、僕の教科書を支持する時代が来るかどうかはわからない。

 でも、図書館で代々読み継がれるものは作ってみたいと思うのだ。
 彼らが成長し、大人になる頃に、今よりはマシな社会になるように、その種を植えてみたいと思う。

 なぜなら、そういう教科書を僕自身が読みたかったし、若者取材を10年以上も続けて、多くの10代から求められる内容がわかっているからだ。

 まぁ、いつ出来上がるかは、お約束できないのだが。

 


 
 


テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体

判断の主体 ~当事者性のキーワード

 今日は、東大自主ゼミ「私を知るための当事者学」(愛称「conゼミ」)のラス前で、ゼミ生10人にそれぞれ自分史年表を書いてもらったのを各自発表してもらい、他の人がそれに突っ込むという荒業を課した。

 終了後、「俺も年を食ったのかな」と嘆息したのは、秘密のゲスト講師として招いた工藤友資(※rabit tickerやBlog Petなどのカリスマ・プログラマ)だ。

「みんな『こんなことを考えてた』という自意識についてばかり書いてるような気がしたんだ」

 なるほど、「脳内アクション」しかしてないわけだね。
 と、僕は答えた。

 もっとも、20代の多いゼミ生であれば、「リアルなアクション」に対する自己評価の基準そのものがあいまいであり、言わば、それを評価したり、何かをそこから読み取って次の行動を決める判断の主体が誰なのかがよく見えていないから、自意識的な年譜になってしまうのも、僕には理解可能なのだ。

 僕のゼミでは、社会人もほかの大学の学生も受講しにくる。
 となると、これまでのように学内での評価基準や、家族から培われた善悪の基準には収まらず、もっと広い基準にさらされることになる。
 言わば、裸で外を歩けと言われたも同然なのだ。

 これは、社会に出てみれば、少しずつ、遅かれ早かれ経験することになるのだけど、僕のゼミでは毎週違うテーマで違うゲスト講師を招きながら「世間の風」が、これまで教わってきた基準より豊かで、複雑で、ゆるいものだと体感的(皮膚感覚的)に理解してもらう意図があった。

 おかげで自分史を各自10分という短い時間で語り、突っ込まれるという通過儀礼を経ることで、すごく気持ちが楽になったゼミ生も少なからずいることだろう。

 何しろ、自分自身について深く語ったり、歴史的に明かしたり、四方八方から突っ込まれたりすることは、日常の付き合いや単位をとる授業では要求されない体験だからだ。

 自分が公衆の面前で「さらされる」体験を面白く感じてもらえたら、そこから当事者性を体感する窓が開かれたことになる。

 自分を明かすことは、必ずしも周囲を囲まれて八方塞がりになったり、世間を敵に回すことになるとは限らない。
 むしろ、逆のほうが多いはずなのだ。

 通常の授業では、「彼は」「あれは」という具合に3人称で事物を学ぶのがデフォルトとされる。

 たとえば、心理学でいえば、「虐待とは精神的虐待、身体的虐待…」という具合にだ。

 しかし、僕のゼミでは1人称で語らせようとしている。
 「みんなはそうかもしれないけど、私は~」という具合に。

 なぜ、語り口におけるそうした人称の変容を迫るのかといえば、事物を観る場合に、3人称で語ることで判断の主体があいまいになることを恐れるからだ。

 3人称で語れば、客観的な視座を得ているとは、必ずしも言えない。
 たとえば、戦争について語るときも、その語り部の立ち位置によって、戦争はいろんな色を見せる。

「戦争は勝つべきものだ」(軍司令官)
「戦争は避けるものだ」(反戦論者)
「戦争は経済封鎖前には起こるはずがない」(社会学者)

 こうしてみれば、3人称で語ることが、「戦争」を他人事にしていることがわかるだろう。
 自分の所属する国の動向として考えれば、社会学者ですら、客観的な正しさだけを言っていてもラチがあかないことが理解できよう。

 しかし、現実のマスメディアの語り口、あるいはその構えを疑いもせずに採用する自称「フリー・ジャーナリスト」も、僕には事物の断片情報しか与えていないことに居直っているように見える。

 たとえば、「ネット依存」を問題視している「ジャーナリスト」がいる。
 問題視しているのは彼自身なのに、あたかも「この人がネット依存です」という具合に取材対象者について書いている。

 取材された側は、「ネット依存」によって何ら困った経験もなく、それ自体を悪いことだと感じていないにも関わらず、ジャーナリストが話を聞きたいというので、聞かれるがままに答えた。

 すると、彼の記事の中で「ネット依存で大変な暮らしをしている人」というキャラとして描かれてしまう。

 当然、当事者にとってはピンとこない記事だけど、ジャーナリストがそう思ってるなら、いいんじゃないの、とばかりに「ふーん」で済ます。

 つまり、そういう記事では、「ネット依存」かどうか、それが「問題」なのかどうかの判断の主体性をジャーナリスト自身が当事者から奪っているのだが、両者とも全然気づいていない。

 そりゃ、そうだ。

 多くの人は、判断の主体をあいまいにしたがる日本文化の作法をデフォルトとして身につけているし、マスコミの多くは3人称で語ることによって「自分の実感」であることを消す作法こそ客観記述だと信じて疑わないし、それが当事者性に対する関心さえ奪ってしまっていることに慣れ過ぎているからだ。

 しかし、「ネット依存」という言葉は、それが世間に投げられた瞬間に、「ネット依存は問題のあるもの」として流通し、誰にとってどの程度問題なのかについては軽視される(=判断の主体への関心を奪ってしまう)。

 それどころか、世間に受けのいいそういう構え(=当事者に語らせずに自ら判断の主体になること)ほど、従来型の大人には迎え入れられやすいので、「当事者性」なんて聞いたこともない田舎の講演に呼ばれたり、新聞やテレビに呼ばれたりするわけだ。

 まぁ、そういう「御用コメンテーター」になりたくないので、僕は新聞に出る時は趣旨を問うし、最近ではテレビ番組を自分で企画して作るほうに回っている。

 もっとも、ジャーナリスト自身の苦しみを書くなら、まだわかる。

 しかし、自分が当事者ではない他人の苦しみを一方的に書くのは、当事者性についてまったく鈍感だと言わざるを得ないし、世間に問題提起すればするほど当事者たちを余計に悩ませることになることにも、きっとそんなジャーナリストはピンとこないだろう。

 当事者性とは、「私はこう感じる」という1人称でしか表現しえない。
 「ネット依存で、あなたは苦しいんでしょ」という構えは、先走りというか、単純に相手の立場を無視してしまっているのだ。

 こう書くと、「お前だって『リタリン依存はだめ』って言って、処方する医者を批判してるじゃないか。当事者性に立っていると言えるのか?」というツッコミをする人もいるだろう。

 御意。
 「リタリンが欲しい人」、その気持ちを否定する気持ちなど毛頭ない。
 ほしい時はほしいんだろうなぁ、と淡々と受け止める。

 しかし、僕のところへメールで「リタリン辞めたいんです。依存が辞められずに苦しいんです」と訴えてくる人には、「依存症は判断の主体を奪われているココロの病気です」と説明する。

 自力で辞められないから依存症なのだ。
 辞めたいのであれば、しかるべき方法は、入院するか、薬物療法以外のアプローチを試みるかなど、他の豊かな治療方法について自分に合った選択肢を選んでもらう以外にない。

 選べるチャンスがある、としかいえない。
 決めるのはあくまでも当事者であるあなたですよ、と答える。

 なぜなら、依存症は自分が依存症であると腹の底から自覚しなければ、「死んでもいいから今クスリをくれ」という構えから逃げられない病気だからだ。

 それは、薬をテレクラに言い換えれば、僕自身の体験から導き出せる「当事者の意見」だ。

 それゆえ、僕は僕自身の当事者性の範囲でしか、ものを言わないし、書かない。

 少年ではない元少年院の法務教官のオバサンが、犯罪を行った少年についてコメントしているのを観るのも、嫌な気分だ。

 「女なんてこうすればオチるぜ」と平気で口説きマニュアル本を書いているナンパ師と同様の構えに見えるからだ。

 どちらも自分の会った人間のタイプが偏っていることに気付かない点がイタイ感じなのだが、まぁ、何百人と出会おうとサンプルが偏っている限り、統計学的にはあまり意味をなさないことは往々にしてある。

 いろんな人間がいる。
 それは、仕事を離れて、自分の趣味を離れて、世の中全体を見渡していこうという構えがないと、見えてこない真実だ。

 判断の主体は人の数だけ無数に存在するのだから、お互いに「俺が主体だ」と声高に叫んでしまっている愚かしさを自覚しないと、より多くの人にシェアできる共通認識には至らないだろう。

 ここまで説明すれば、「身体的虐待」という言葉についても、それをそうだと判断する主体が誰なのかについて興味をもってもらえるだろうか?

 児童福祉法では、虐待かどうかの判断は児童相談所が一義的に決めてしまう。

 これは、未成年を「参政権を持たず、大人に保護されるもの」としているからかもしれないが、当事者の子どもにとって「親が殴ったから身体的虐待」という役所の定義は必ずしも当てはまらない。

 興味深いのは、マスコミで批判されがちの戸塚ヨットスクールの卒業生には、「殴られて目覚めた」とか「ひっぱたかれて生き直せた」と評価を下す人が少なからずいることだ。

 もちろん、「それはストックホルム症候群の一種」と切り捨てる向きもあるだろう。

 しかし、当事者が自分自身の腹から出る言葉として、そういうポジティヴな受け止め方で戸塚での経験を肯定できるとしたら、必ずしもレッテル張りを当事者ではない人がする必要があるだろうか?

 当事者性をふまえるということは、その人の自尊心に配慮することであり、他人の自尊心を配慮することは必ずしも当たらず障らずの構えを向けることではなく、相手が「わかってもらえた」と感じるまで自分が相手に関心を持つことだろうと僕は思う。

 関心を持つことには、相手がその場ではその時には答えたくないことも聞いてしまう恐れがある。

 だが、その自らの恐れを突破し、恐る恐るでも尋ねてみれば、どこまで突っ込めば、当事者である相手の自尊心を決定的に傷つけてしまうのかが見えてくる。

 僕は若者取材を長くしてきたけれど、その経験で言えば、若者の自尊心は意外に強い。

 昔のことを思い出して不意に泣いてしまう子もいたけれど、思わずわびる僕に「泣いてスッキリした」「感情が出たらいろいろ整理できた」と言ってくれる子も少なからずいた。

 「立ち直れない」と言った子も、結局は立ち直った。
 そういう報告メールがときどき届くのだ、その当事者から。
 そこで初めて僕は「立ち直ったんだな」と受け止める。

 腹の中にある悶々としたもの、出したい毒、そんなものをドカンと外に出すチャンスは、なかなか一人では作れない。

 偶発的にマンガやアニメや小説などにふれて、突然にそんなチャンスにめぐりあうことがあるかもしれないけど、僕はもっと主体的に他人に関心を持っていたいし、相手の心の膿みたいなものを掻きだしてやりたい気持ちさえある。

 だから、あえてズケズケとプライベートな質問をしたり、不意に冗談でからかってみたりするのだろう。

 どう転んでも自分よ。
 どう変わろうとね。

 そうやって、泣いたり、わめいたり、怒ったり、さみしくなったりするほうが、平然と何かに耐えようとしている人より、よっぽど魅力的だと思うから、僕は若者たちを「いじる」のだ。

 後期のゼミは10月から。
 もっと当事者性について突っ込むつもりなので、興味のある方はmixiコミュ「conゼミ@東大」に参加されたし。




テーマ:科学・医療・心理 - ジャンル:学問・文化・芸術

プロフィール

今一生 con isshow

Author:今一生 con isshow
 ライター・編集者。
 '97年「Create Media」名義で編集した『日本一醜い親への手紙』がベストセラーに。
 '99年に発表した『完全家出マニュアル』で造語した「プチ家出」が流行。
 著書に『ゲストハウスに住もう!』(晶文社)、『下流上等』(学事出版)、『「死ぬ自由」という名の救い』(河出書房新社)など多数。
◎公式サイト
◎今一生の本

カテゴリー

リンク

■ゲストハウスに住もう!
■ネオニートへの道
■クスリをやめたいあなたのために

■ミス御隠居の無責任日記
芸能時事ネタで笑えるのほほん日記。


■ご機嫌公論
ライター&エディターのロイ渡辺くんのブログ。


■バルセロナの日本人女性
”バルセロナ嫌い”なのに在住7年――英語翻訳家のちょっとハイソ な日常を英語バイリンガルでお届け。


■インドで豆腐屋になろう!
豆腐屋の娘でも無いのに、東京で豆腐屋修行するちべまろさんのブログ。



■レンタル空手家
ひきこもりや精神的に弱い人の自宅や近所に出向いてくれる空手家のブログ。



■世界の片隅から、映画を観る。
心動かされた映画を紹介するまこと(仮名)さんのブログ。



FC2ブックマークに追加

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。