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判断の主体 ~当事者性のキーワード

 今日は、東大自主ゼミ「私を知るための当事者学」(愛称「conゼミ」)のラス前で、ゼミ生10人にそれぞれ自分史年表を書いてもらったのを各自発表してもらい、他の人がそれに突っ込むという荒業を課した。

 終了後、「俺も年を食ったのかな」と嘆息したのは、秘密のゲスト講師として招いた工藤友資(※rabit tickerやBlog Petなどのカリスマ・プログラマ)だ。

「みんな『こんなことを考えてた』という自意識についてばかり書いてるような気がしたんだ」

 なるほど、「脳内アクション」しかしてないわけだね。
 と、僕は答えた。

 もっとも、20代の多いゼミ生であれば、「リアルなアクション」に対する自己評価の基準そのものがあいまいであり、言わば、それを評価したり、何かをそこから読み取って次の行動を決める判断の主体が誰なのかがよく見えていないから、自意識的な年譜になってしまうのも、僕には理解可能なのだ。

 僕のゼミでは、社会人もほかの大学の学生も受講しにくる。
 となると、これまでのように学内での評価基準や、家族から培われた善悪の基準には収まらず、もっと広い基準にさらされることになる。
 言わば、裸で外を歩けと言われたも同然なのだ。

 これは、社会に出てみれば、少しずつ、遅かれ早かれ経験することになるのだけど、僕のゼミでは毎週違うテーマで違うゲスト講師を招きながら「世間の風」が、これまで教わってきた基準より豊かで、複雑で、ゆるいものだと体感的(皮膚感覚的)に理解してもらう意図があった。

 おかげで自分史を各自10分という短い時間で語り、突っ込まれるという通過儀礼を経ることで、すごく気持ちが楽になったゼミ生も少なからずいることだろう。

 何しろ、自分自身について深く語ったり、歴史的に明かしたり、四方八方から突っ込まれたりすることは、日常の付き合いや単位をとる授業では要求されない体験だからだ。

 自分が公衆の面前で「さらされる」体験を面白く感じてもらえたら、そこから当事者性を体感する窓が開かれたことになる。

 自分を明かすことは、必ずしも周囲を囲まれて八方塞がりになったり、世間を敵に回すことになるとは限らない。
 むしろ、逆のほうが多いはずなのだ。

 通常の授業では、「彼は」「あれは」という具合に3人称で事物を学ぶのがデフォルトとされる。

 たとえば、心理学でいえば、「虐待とは精神的虐待、身体的虐待…」という具合にだ。

 しかし、僕のゼミでは1人称で語らせようとしている。
 「みんなはそうかもしれないけど、私は~」という具合に。

 なぜ、語り口におけるそうした人称の変容を迫るのかといえば、事物を観る場合に、3人称で語ることで判断の主体があいまいになることを恐れるからだ。

 3人称で語れば、客観的な視座を得ているとは、必ずしも言えない。
 たとえば、戦争について語るときも、その語り部の立ち位置によって、戦争はいろんな色を見せる。

「戦争は勝つべきものだ」(軍司令官)
「戦争は避けるものだ」(反戦論者)
「戦争は経済封鎖前には起こるはずがない」(社会学者)

 こうしてみれば、3人称で語ることが、「戦争」を他人事にしていることがわかるだろう。
 自分の所属する国の動向として考えれば、社会学者ですら、客観的な正しさだけを言っていてもラチがあかないことが理解できよう。

 しかし、現実のマスメディアの語り口、あるいはその構えを疑いもせずに採用する自称「フリー・ジャーナリスト」も、僕には事物の断片情報しか与えていないことに居直っているように見える。

 たとえば、「ネット依存」を問題視している「ジャーナリスト」がいる。
 問題視しているのは彼自身なのに、あたかも「この人がネット依存です」という具合に取材対象者について書いている。

 取材された側は、「ネット依存」によって何ら困った経験もなく、それ自体を悪いことだと感じていないにも関わらず、ジャーナリストが話を聞きたいというので、聞かれるがままに答えた。

 すると、彼の記事の中で「ネット依存で大変な暮らしをしている人」というキャラとして描かれてしまう。

 当然、当事者にとってはピンとこない記事だけど、ジャーナリストがそう思ってるなら、いいんじゃないの、とばかりに「ふーん」で済ます。

 つまり、そういう記事では、「ネット依存」かどうか、それが「問題」なのかどうかの判断の主体性をジャーナリスト自身が当事者から奪っているのだが、両者とも全然気づいていない。

 そりゃ、そうだ。

 多くの人は、判断の主体をあいまいにしたがる日本文化の作法をデフォルトとして身につけているし、マスコミの多くは3人称で語ることによって「自分の実感」であることを消す作法こそ客観記述だと信じて疑わないし、それが当事者性に対する関心さえ奪ってしまっていることに慣れ過ぎているからだ。

 しかし、「ネット依存」という言葉は、それが世間に投げられた瞬間に、「ネット依存は問題のあるもの」として流通し、誰にとってどの程度問題なのかについては軽視される(=判断の主体への関心を奪ってしまう)。

 それどころか、世間に受けのいいそういう構え(=当事者に語らせずに自ら判断の主体になること)ほど、従来型の大人には迎え入れられやすいので、「当事者性」なんて聞いたこともない田舎の講演に呼ばれたり、新聞やテレビに呼ばれたりするわけだ。

 まぁ、そういう「御用コメンテーター」になりたくないので、僕は新聞に出る時は趣旨を問うし、最近ではテレビ番組を自分で企画して作るほうに回っている。

 もっとも、ジャーナリスト自身の苦しみを書くなら、まだわかる。

 しかし、自分が当事者ではない他人の苦しみを一方的に書くのは、当事者性についてまったく鈍感だと言わざるを得ないし、世間に問題提起すればするほど当事者たちを余計に悩ませることになることにも、きっとそんなジャーナリストはピンとこないだろう。

 当事者性とは、「私はこう感じる」という1人称でしか表現しえない。
 「ネット依存で、あなたは苦しいんでしょ」という構えは、先走りというか、単純に相手の立場を無視してしまっているのだ。

 こう書くと、「お前だって『リタリン依存はだめ』って言って、処方する医者を批判してるじゃないか。当事者性に立っていると言えるのか?」というツッコミをする人もいるだろう。

 御意。
 「リタリンが欲しい人」、その気持ちを否定する気持ちなど毛頭ない。
 ほしい時はほしいんだろうなぁ、と淡々と受け止める。

 しかし、僕のところへメールで「リタリン辞めたいんです。依存が辞められずに苦しいんです」と訴えてくる人には、「依存症は判断の主体を奪われているココロの病気です」と説明する。

 自力で辞められないから依存症なのだ。
 辞めたいのであれば、しかるべき方法は、入院するか、薬物療法以外のアプローチを試みるかなど、他の豊かな治療方法について自分に合った選択肢を選んでもらう以外にない。

 選べるチャンスがある、としかいえない。
 決めるのはあくまでも当事者であるあなたですよ、と答える。

 なぜなら、依存症は自分が依存症であると腹の底から自覚しなければ、「死んでもいいから今クスリをくれ」という構えから逃げられない病気だからだ。

 それは、薬をテレクラに言い換えれば、僕自身の体験から導き出せる「当事者の意見」だ。

 それゆえ、僕は僕自身の当事者性の範囲でしか、ものを言わないし、書かない。

 少年ではない元少年院の法務教官のオバサンが、犯罪を行った少年についてコメントしているのを観るのも、嫌な気分だ。

 「女なんてこうすればオチるぜ」と平気で口説きマニュアル本を書いているナンパ師と同様の構えに見えるからだ。

 どちらも自分の会った人間のタイプが偏っていることに気付かない点がイタイ感じなのだが、まぁ、何百人と出会おうとサンプルが偏っている限り、統計学的にはあまり意味をなさないことは往々にしてある。

 いろんな人間がいる。
 それは、仕事を離れて、自分の趣味を離れて、世の中全体を見渡していこうという構えがないと、見えてこない真実だ。

 判断の主体は人の数だけ無数に存在するのだから、お互いに「俺が主体だ」と声高に叫んでしまっている愚かしさを自覚しないと、より多くの人にシェアできる共通認識には至らないだろう。

 ここまで説明すれば、「身体的虐待」という言葉についても、それをそうだと判断する主体が誰なのかについて興味をもってもらえるだろうか?

 児童福祉法では、虐待かどうかの判断は児童相談所が一義的に決めてしまう。

 これは、未成年を「参政権を持たず、大人に保護されるもの」としているからかもしれないが、当事者の子どもにとって「親が殴ったから身体的虐待」という役所の定義は必ずしも当てはまらない。

 興味深いのは、マスコミで批判されがちの戸塚ヨットスクールの卒業生には、「殴られて目覚めた」とか「ひっぱたかれて生き直せた」と評価を下す人が少なからずいることだ。

 もちろん、「それはストックホルム症候群の一種」と切り捨てる向きもあるだろう。

 しかし、当事者が自分自身の腹から出る言葉として、そういうポジティヴな受け止め方で戸塚での経験を肯定できるとしたら、必ずしもレッテル張りを当事者ではない人がする必要があるだろうか?

 当事者性をふまえるということは、その人の自尊心に配慮することであり、他人の自尊心を配慮することは必ずしも当たらず障らずの構えを向けることではなく、相手が「わかってもらえた」と感じるまで自分が相手に関心を持つことだろうと僕は思う。

 関心を持つことには、相手がその場ではその時には答えたくないことも聞いてしまう恐れがある。

 だが、その自らの恐れを突破し、恐る恐るでも尋ねてみれば、どこまで突っ込めば、当事者である相手の自尊心を決定的に傷つけてしまうのかが見えてくる。

 僕は若者取材を長くしてきたけれど、その経験で言えば、若者の自尊心は意外に強い。

 昔のことを思い出して不意に泣いてしまう子もいたけれど、思わずわびる僕に「泣いてスッキリした」「感情が出たらいろいろ整理できた」と言ってくれる子も少なからずいた。

 「立ち直れない」と言った子も、結局は立ち直った。
 そういう報告メールがときどき届くのだ、その当事者から。
 そこで初めて僕は「立ち直ったんだな」と受け止める。

 腹の中にある悶々としたもの、出したい毒、そんなものをドカンと外に出すチャンスは、なかなか一人では作れない。

 偶発的にマンガやアニメや小説などにふれて、突然にそんなチャンスにめぐりあうことがあるかもしれないけど、僕はもっと主体的に他人に関心を持っていたいし、相手の心の膿みたいなものを掻きだしてやりたい気持ちさえある。

 だから、あえてズケズケとプライベートな質問をしたり、不意に冗談でからかってみたりするのだろう。

 どう転んでも自分よ。
 どう変わろうとね。

 そうやって、泣いたり、わめいたり、怒ったり、さみしくなったりするほうが、平然と何かに耐えようとしている人より、よっぽど魅力的だと思うから、僕は若者たちを「いじる」のだ。

 後期のゼミは10月から。
 もっと当事者性について突っ込むつもりなので、興味のある方はmixiコミュ「conゼミ@東大」に参加されたし。




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コメント

 リンクしておきました。
 今後ともよろしくお願いします!
【2007/07/15 14:28】 URL | con #-[ 編集]
相互リンク、もう是非お願いします。
今さんのブログからリンク張ってもらえるのは、ほんとに嬉しいです。
【2007/07/15 00:14】 URL | まこと(仮名) #-[ 編集]
 まったく同感です。
 僕自身、相手の当事者性を無視しては、なかなか前に進めません。
 なぜなら、僕自身も誰かにとっては、なんらかの「加害者としての当事者」として認知されうる存在だからです。
 リンクは、ぜひどうぞお願いします。
 相互悋気希望であれば、応じますが、いかがいたしましょう。
【2007/07/14 22:07】 URL | con #-[ 編集]
 ある人物の行動を、「あいつは有名人の自覚が足りない」とか「周りのことを考えていない」と批判する意見が、ネットでもリアルでもよく目にします。
 こういう意見を見ていると、「あんたらがそいつだったら同じことしないって言い切れるのか」と怒り心頭になります。
 私が怒るのは、たぶん愚行を繰り返してきた身だからだと思います。当事者から見ると、批判している人間はただの他人です。

P.S.
ところで、私のブログにここのリンクを貼ってもよろしいでしょうか?
【2007/07/14 14:58】 URL | まこと(仮名) #-[ 編集]

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Author:今一生 con isshow
 ライター・編集者。
 '97年「Create Media」名義で編集した『日本一醜い親への手紙』がベストセラーに。
 '99年に発表した『完全家出マニュアル』で造語した「プチ家出」が流行。
 著書に『ゲストハウスに住もう!』(晶文社)、『下流上等』(学事出版)、『「死ぬ自由」という名の救い』(河出書房新社)など多数。
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