オルタナティヴでいこう! ~告知ブログ
人は時に壁にぶつかる。でも、視点を変えれば、「想定外」の解決策が見つかるのさ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

判断の主体を奪う人々 ~自己決定力へ

 先週末、大阪で講演を行った。
 教育委員会、PTA、教職員が三位一体になった団体からのお招きだった。

 こういう反目しがちな立場の大人が「地域の子育て」に一丸となって取り組もうという姿勢は、買いだ。

 しかも、いまどきの子どもたちの現実を寸劇で見せているユニークな取り組みも、忙しい大人たちにとって、子どもの当事者性に迫る試みとしては、とても興味深いアプローチにようにも感じた。

 でも、実際に寸劇を見てみると、「うん?」と首をひねりたくなるシーンもあった。

 たとえば、「ケータイ依存」という寸劇では、何時間も友達と電話してるギャル娘(大人が演じる)がオカンから注意されたら深夜までしゃべり、オカンが寝静まったら夜な夜な徘徊し、気がつけば派手なカッコになってるという「非行のプロセス」を見せている。

 日常にひそむ「問題」がここにありますよ、と言いたいのだろう。
 しかし、それはケータイという新しいメディアのせいなのか?
 そもそも、家に一つの電話しかなかった時代でも、親のいない時間帯に連絡をとりあう思春期を過ごしてきたのではなかったか?

 いつの時代でも、子どもにとって親に言えないことはあるし、家では話しにくいことだってある。

 そうした子どもの視線を無視する形で、いきなりケータイによる長電話と夜間外出を「問題」にしてしまうところには、あらかじめ親や教師という教育者が(教育されるべき)子どもに対して善悪を判断してやればいいのだ、という傲慢さが垣間見えた。

 多くの子どもは、善悪の判断くらいできる。
 長電話も夜間の無断外出も、それが決して良いことだとは思っていないし、親を心配させたり、それによって説教を食らうのも良いことだとは感じていない。

 それでも、そんな「良くないこと」をしないではいられないのは、それなりに理由があるだろう。

 そこに踏み込まず、「これは悪いことです。こんなことを続けたら派手なカッコの非行に走ります」と伝えて、大人どうしで納得しあっても、当事者である子どもには何ら響かないだろう。

 それとも、芝居をする側の大人が、それを見る側の大人に対して教育が必要だというのだろうか?

 僕の中には、「?」マークがいっぱい生まれた。

 それは、抵抗感ともいえるし、「行政と民間と教職現場が三位一体になっても地方の子育てにおけるコンセンサスのありようはまだこの程度にすぎないのかもしれない」という虚無感かもしれない。

 だから、この集まりの最後の演目である僕の講演では、判断の主体性を子どもから奪わないようにしようよ、という話をした。

 たとえば、リストカットをしている少女がいる。
 親は心配し、「切るな」といきなり言いがちになるし、精神科医は「病気です」といきなり薬を出したりする。

 しかし、「リストカットは悪い」と十分に理解しているのは親とか医者とか周囲のだれかではなく、当事者である子ども自身であることに、まず周囲の人間が気づくことが大事だろう。

 気付けば、わざわざ「切ってはいけません」とか「切らないで」というセリフを言う必要はなく、「自分を傷つけることはいけない」なんていう、誰もが否定出来ないような正論を振りかざして子どもを追い詰めることもなくなる。

 「切らない」という正論に導くためなら、むしろその子があらかじめ明るい気持ちになれる趣味の話にじっくり付き合い、関心を持ってあげることが、切る行為を忘れさせることになる。

 でも、「切らないで」とか「この薬を飲んで」とか言う人は、自分自身の役割を果たすことにしか関心がなく、目の前の人間が本当は何に興味をもっているのか、何によってワクワク生きられるのかについて関心を持たないし、その子自身にとって関心のあることにすら興味を持たない。

 相手がすごく関心を持っていること。
 その話にこそ、食い付くべきだと僕は思う。

 そこに関心を持たないで、「この子はいつまで私を心配させるのかしら」という自分自身の不安の解消にしか関心を持てない人は、結局はその子の当事者性に配慮していないのと同じなのだ。

 実際、このように、相手が持つ事情に踏み込み、理解しようという構えが話を聞く側に足りないと、ともすれば、自分の興味あることしか聞かないことになる。

 だからこそ、相手の苦悩は延々と続き、「問題」はエスカレートし、話を聞いたつもりになっている人をさらに悩ませ続けることになるのだ。

 こういうことが起こるのは、大人の側に人の話を聞くだけの時間的な余裕や、何時間も相手する体力がないから。
 しかし、そういう自分自身の問題に思い当たらない人が多いので、子どもはいつの時代も「大人はわかってくれない」と感じるものなのだ。

 もっとも、精神科医や教職員というのは、医学や教育界の内側の論理しか知らない。

 リストカットなんて、神奈川の某有名私立高では、生徒の半分程度が経験しているくらいポピュラーなものだから、その行為を見つけただけで精神病を疑うなんて、あまりにも世間知らずなのだが、精神病理と社会病理の違いを十分に理解している医者は今日ではほとんどいないし、自分の財布を肥やしてくれる患者をみすみす逃す人もいないので、とりあえず全員患者にしてしまう医者の問題が少しずつメディアに取り上げられるようになっている。

 簡単に言えば、医者は医療オタク、教職員は教育オタクになっているのだ。
 その世界しか知らない人は、本当に困る。
 なぜなら、専門知識で救えるほど、現代の人間は単純にはできていないからだ。

 自殺防止の問題にしても、精神科医にばかり金をばらまいたところで自殺者数は減らないだろうし、学者ばかり集まったところで学問オタクのアプローチしか持ち得ないだろう。

 こうしてみると、判断の主体として自立する(=誰かに自分が判断されていることに敏感になる)には、自分が何かを語ろうとする際に、その話題について「自分はその当事者なのか?」と自問することが避けられないことがわかる。

 自分のすることくらい、自分で決める。
 自分がしていることの善悪は、まず自分で判断する。
 そういう自己決定力を養わないと、誰かが自分の言動に対して行う判断に対して自意識的に悩むようなことにとらわれてしまうだろう。

 他人はどう思うだろうか?
 もちろん、それは大事だ。

 でも、もっと大事なのは、「自分は自分の言動に対してどの程度本気で言っているのか」と自問し、自分の言動を誇りあるものに育てていくことだろう。

 誰かに判断の主体を奪われたままでは、気がつけば、世間を味方にするような言動しかできない人間にしかなれない。

 でも、世間が君の人生の選択の結果に責任を持ってくれるか?
 ありえない!!!

 みんなにとっての「良い子」であり続ければ、自分自身にとって「よくわからない子」になってしまうはずだ。

 そんな生き方してて、面白いか?
 面白いなら、どうぞ。
 僕はとめない。

 今日の日本、学校や社会は、「よくわからない子」を量産しておいて、大人になる頃には「境界性人格障害」なんていうレッテルを貼って「問題」にしてしまtっているけれど、教育者や医者には加害者意識なんかないだろう。

 だって、「よくわからない子」という育ちをしてきた人が大人になったんだから。

 目の前に暴行やひどいいじめがあったら、殴り合いをしても、周囲に嫌われても、目の前で止める。
 そういう勇気を問われるシーンは、思春期にいっぱいあったはずだ。

 しかし、僕が中学生になる頃に校内暴力が全国に蔓延し、学校は警察を校内に入れた。

 子どもがそこで学ぶ機会を奪い、品行方正な「良い子」でなければ許容しない無菌室のような教室になってしまった。

 当然、いじめはアングラ化し、教師や親の見えないところでしかできなくなった。
 ネットはその一つにすぎないし、そもそもネット社会は大人の経済社会が用意したものだ。

 僕ら大人は、「良い子」でなくても許容する文脈と施策、インフラや文化を担う必要があると思う。

 僕はそういう構えで本を作ってきた自負があるけど、まだまだ仕事が残っている気がする。

 いつか、学校の副教材になるような教科書を作ろうかと思ってる。
 学校の社会の教科書よりも、もっと面白く役立ち、自分が学ぶ意味が納得できる教科書を作ってみたい。

 当事者の生徒たちが、学校で指定されたものよりも、僕の教科書を支持する時代が来るかどうかはわからない。

 でも、図書館で代々読み継がれるものは作ってみたいと思うのだ。
 彼らが成長し、大人になる頃に、今よりはマシな社会になるように、その種を植えてみたいと思う。

 なぜなら、そういう教科書を僕自身が読みたかったし、若者取材を10年以上も続けて、多くの10代から求められる内容がわかっているからだ。

 まぁ、いつ出来上がるかは、お約束できないのだが。

 


 
 


スポンサーサイト

テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体

判断の主体 ~当事者性のキーワード

 今日は、東大自主ゼミ「私を知るための当事者学」(愛称「conゼミ」)のラス前で、ゼミ生10人にそれぞれ自分史年表を書いてもらったのを各自発表してもらい、他の人がそれに突っ込むという荒業を課した。

 終了後、「俺も年を食ったのかな」と嘆息したのは、秘密のゲスト講師として招いた工藤友資(※rabit tickerやBlog Petなどのカリスマ・プログラマ)だ。

「みんな『こんなことを考えてた』という自意識についてばかり書いてるような気がしたんだ」

 なるほど、「脳内アクション」しかしてないわけだね。
 と、僕は答えた。

 もっとも、20代の多いゼミ生であれば、「リアルなアクション」に対する自己評価の基準そのものがあいまいであり、言わば、それを評価したり、何かをそこから読み取って次の行動を決める判断の主体が誰なのかがよく見えていないから、自意識的な年譜になってしまうのも、僕には理解可能なのだ。

 僕のゼミでは、社会人もほかの大学の学生も受講しにくる。
 となると、これまでのように学内での評価基準や、家族から培われた善悪の基準には収まらず、もっと広い基準にさらされることになる。
 言わば、裸で外を歩けと言われたも同然なのだ。

 これは、社会に出てみれば、少しずつ、遅かれ早かれ経験することになるのだけど、僕のゼミでは毎週違うテーマで違うゲスト講師を招きながら「世間の風」が、これまで教わってきた基準より豊かで、複雑で、ゆるいものだと体感的(皮膚感覚的)に理解してもらう意図があった。

 おかげで自分史を各自10分という短い時間で語り、突っ込まれるという通過儀礼を経ることで、すごく気持ちが楽になったゼミ生も少なからずいることだろう。

 何しろ、自分自身について深く語ったり、歴史的に明かしたり、四方八方から突っ込まれたりすることは、日常の付き合いや単位をとる授業では要求されない体験だからだ。

 自分が公衆の面前で「さらされる」体験を面白く感じてもらえたら、そこから当事者性を体感する窓が開かれたことになる。

 自分を明かすことは、必ずしも周囲を囲まれて八方塞がりになったり、世間を敵に回すことになるとは限らない。
 むしろ、逆のほうが多いはずなのだ。

 通常の授業では、「彼は」「あれは」という具合に3人称で事物を学ぶのがデフォルトとされる。

 たとえば、心理学でいえば、「虐待とは精神的虐待、身体的虐待…」という具合にだ。

 しかし、僕のゼミでは1人称で語らせようとしている。
 「みんなはそうかもしれないけど、私は~」という具合に。

 なぜ、語り口におけるそうした人称の変容を迫るのかといえば、事物を観る場合に、3人称で語ることで判断の主体があいまいになることを恐れるからだ。

 3人称で語れば、客観的な視座を得ているとは、必ずしも言えない。
 たとえば、戦争について語るときも、その語り部の立ち位置によって、戦争はいろんな色を見せる。

「戦争は勝つべきものだ」(軍司令官)
「戦争は避けるものだ」(反戦論者)
「戦争は経済封鎖前には起こるはずがない」(社会学者)

 こうしてみれば、3人称で語ることが、「戦争」を他人事にしていることがわかるだろう。
 自分の所属する国の動向として考えれば、社会学者ですら、客観的な正しさだけを言っていてもラチがあかないことが理解できよう。

 しかし、現実のマスメディアの語り口、あるいはその構えを疑いもせずに採用する自称「フリー・ジャーナリスト」も、僕には事物の断片情報しか与えていないことに居直っているように見える。

 たとえば、「ネット依存」を問題視している「ジャーナリスト」がいる。
 問題視しているのは彼自身なのに、あたかも「この人がネット依存です」という具合に取材対象者について書いている。

 取材された側は、「ネット依存」によって何ら困った経験もなく、それ自体を悪いことだと感じていないにも関わらず、ジャーナリストが話を聞きたいというので、聞かれるがままに答えた。

 すると、彼の記事の中で「ネット依存で大変な暮らしをしている人」というキャラとして描かれてしまう。

 当然、当事者にとってはピンとこない記事だけど、ジャーナリストがそう思ってるなら、いいんじゃないの、とばかりに「ふーん」で済ます。

 つまり、そういう記事では、「ネット依存」かどうか、それが「問題」なのかどうかの判断の主体性をジャーナリスト自身が当事者から奪っているのだが、両者とも全然気づいていない。

 そりゃ、そうだ。

 多くの人は、判断の主体をあいまいにしたがる日本文化の作法をデフォルトとして身につけているし、マスコミの多くは3人称で語ることによって「自分の実感」であることを消す作法こそ客観記述だと信じて疑わないし、それが当事者性に対する関心さえ奪ってしまっていることに慣れ過ぎているからだ。

 しかし、「ネット依存」という言葉は、それが世間に投げられた瞬間に、「ネット依存は問題のあるもの」として流通し、誰にとってどの程度問題なのかについては軽視される(=判断の主体への関心を奪ってしまう)。

 それどころか、世間に受けのいいそういう構え(=当事者に語らせずに自ら判断の主体になること)ほど、従来型の大人には迎え入れられやすいので、「当事者性」なんて聞いたこともない田舎の講演に呼ばれたり、新聞やテレビに呼ばれたりするわけだ。

 まぁ、そういう「御用コメンテーター」になりたくないので、僕は新聞に出る時は趣旨を問うし、最近ではテレビ番組を自分で企画して作るほうに回っている。

 もっとも、ジャーナリスト自身の苦しみを書くなら、まだわかる。

 しかし、自分が当事者ではない他人の苦しみを一方的に書くのは、当事者性についてまったく鈍感だと言わざるを得ないし、世間に問題提起すればするほど当事者たちを余計に悩ませることになることにも、きっとそんなジャーナリストはピンとこないだろう。

 当事者性とは、「私はこう感じる」という1人称でしか表現しえない。
 「ネット依存で、あなたは苦しいんでしょ」という構えは、先走りというか、単純に相手の立場を無視してしまっているのだ。

 こう書くと、「お前だって『リタリン依存はだめ』って言って、処方する医者を批判してるじゃないか。当事者性に立っていると言えるのか?」というツッコミをする人もいるだろう。

 御意。
 「リタリンが欲しい人」、その気持ちを否定する気持ちなど毛頭ない。
 ほしい時はほしいんだろうなぁ、と淡々と受け止める。

 しかし、僕のところへメールで「リタリン辞めたいんです。依存が辞められずに苦しいんです」と訴えてくる人には、「依存症は判断の主体を奪われているココロの病気です」と説明する。

 自力で辞められないから依存症なのだ。
 辞めたいのであれば、しかるべき方法は、入院するか、薬物療法以外のアプローチを試みるかなど、他の豊かな治療方法について自分に合った選択肢を選んでもらう以外にない。

 選べるチャンスがある、としかいえない。
 決めるのはあくまでも当事者であるあなたですよ、と答える。

 なぜなら、依存症は自分が依存症であると腹の底から自覚しなければ、「死んでもいいから今クスリをくれ」という構えから逃げられない病気だからだ。

 それは、薬をテレクラに言い換えれば、僕自身の体験から導き出せる「当事者の意見」だ。

 それゆえ、僕は僕自身の当事者性の範囲でしか、ものを言わないし、書かない。

 少年ではない元少年院の法務教官のオバサンが、犯罪を行った少年についてコメントしているのを観るのも、嫌な気分だ。

 「女なんてこうすればオチるぜ」と平気で口説きマニュアル本を書いているナンパ師と同様の構えに見えるからだ。

 どちらも自分の会った人間のタイプが偏っていることに気付かない点がイタイ感じなのだが、まぁ、何百人と出会おうとサンプルが偏っている限り、統計学的にはあまり意味をなさないことは往々にしてある。

 いろんな人間がいる。
 それは、仕事を離れて、自分の趣味を離れて、世の中全体を見渡していこうという構えがないと、見えてこない真実だ。

 判断の主体は人の数だけ無数に存在するのだから、お互いに「俺が主体だ」と声高に叫んでしまっている愚かしさを自覚しないと、より多くの人にシェアできる共通認識には至らないだろう。

 ここまで説明すれば、「身体的虐待」という言葉についても、それをそうだと判断する主体が誰なのかについて興味をもってもらえるだろうか?

 児童福祉法では、虐待かどうかの判断は児童相談所が一義的に決めてしまう。

 これは、未成年を「参政権を持たず、大人に保護されるもの」としているからかもしれないが、当事者の子どもにとって「親が殴ったから身体的虐待」という役所の定義は必ずしも当てはまらない。

 興味深いのは、マスコミで批判されがちの戸塚ヨットスクールの卒業生には、「殴られて目覚めた」とか「ひっぱたかれて生き直せた」と評価を下す人が少なからずいることだ。

 もちろん、「それはストックホルム症候群の一種」と切り捨てる向きもあるだろう。

 しかし、当事者が自分自身の腹から出る言葉として、そういうポジティヴな受け止め方で戸塚での経験を肯定できるとしたら、必ずしもレッテル張りを当事者ではない人がする必要があるだろうか?

 当事者性をふまえるということは、その人の自尊心に配慮することであり、他人の自尊心を配慮することは必ずしも当たらず障らずの構えを向けることではなく、相手が「わかってもらえた」と感じるまで自分が相手に関心を持つことだろうと僕は思う。

 関心を持つことには、相手がその場ではその時には答えたくないことも聞いてしまう恐れがある。

 だが、その自らの恐れを突破し、恐る恐るでも尋ねてみれば、どこまで突っ込めば、当事者である相手の自尊心を決定的に傷つけてしまうのかが見えてくる。

 僕は若者取材を長くしてきたけれど、その経験で言えば、若者の自尊心は意外に強い。

 昔のことを思い出して不意に泣いてしまう子もいたけれど、思わずわびる僕に「泣いてスッキリした」「感情が出たらいろいろ整理できた」と言ってくれる子も少なからずいた。

 「立ち直れない」と言った子も、結局は立ち直った。
 そういう報告メールがときどき届くのだ、その当事者から。
 そこで初めて僕は「立ち直ったんだな」と受け止める。

 腹の中にある悶々としたもの、出したい毒、そんなものをドカンと外に出すチャンスは、なかなか一人では作れない。

 偶発的にマンガやアニメや小説などにふれて、突然にそんなチャンスにめぐりあうことがあるかもしれないけど、僕はもっと主体的に他人に関心を持っていたいし、相手の心の膿みたいなものを掻きだしてやりたい気持ちさえある。

 だから、あえてズケズケとプライベートな質問をしたり、不意に冗談でからかってみたりするのだろう。

 どう転んでも自分よ。
 どう変わろうとね。

 そうやって、泣いたり、わめいたり、怒ったり、さみしくなったりするほうが、平然と何かに耐えようとしている人より、よっぽど魅力的だと思うから、僕は若者たちを「いじる」のだ。

 後期のゼミは10月から。
 もっと当事者性について突っ込むつもりなので、興味のある方はmixiコミュ「conゼミ@東大」に参加されたし。




テーマ:科学・医療・心理 - ジャンル:学問・文化・芸術

戦争は念力では予防できない

 原爆投下について「しょうがない」と発言した大臣がクビになった。

 一国の大臣が問題発言ごときで辞任しなければならないのもどこか
変な気がするが、被ばく県の出身の代議士のいう「しょうがない」には、被ばくした家族や親族、地域の人々を愚弄する気持ちなど、あろうはずがない。
(そんな気持ちがあるようなら、そもそも当選してないだろう)

 しかし、少なくとも最初の原爆投下によって「一億総玉砕!」(国家心中)を国民に強いてきた軍部の戦意を決定的にくじいたのは、おそらく歴史的事実だろうし、それが加害者であるアメリカの「正義」であろうとも、にわかには否定できない側面を持ってはいるように思う。

 ところが、今回の辞任騒動を観ると、そうした冷静さはマスメディアから一掃されており、代わりに被爆地の市民からバッシングさせる映像をテレビで流したり、新聞すらも辞任を当然のものとしている。

 たとえば、読売新聞の「編集手帳」には、こうあった。

◆サッカーの日本代表監督イビチャ・オシム氏の言葉を思い出す。祖国・旧ユーゴスラビアで内戦を経験した。戦争から学んだこともあったでしょう? 氏は答えている。たとえあっても、あったとは言わない。「何かを学べた意義を認めてしまえば、戦争が必要なものになってしまう」と
◆原爆投下も同じだろう。戦争を終結に導いた意義を被爆国の側で少しでも認めてしまえば、「必要なもの」として歴史に再登場するのを許すことにもなりかねない。「しょうがない」に潜む危険である

 こういう一見、まともに見える論調ほど怖いものはない。
 ここには、戦争がなぜ遠ざけるべきものなのかが説明されていないからだ。

「え? 戦争は誰が見てもダメなもんでしょ。
 悲惨なことだから否定するのが当たり前でしょ」

 そう思う向きも少なくないだろう。
 しかし、戦争がどんなに悲惨でも、どれほど悲惨ぶりがわかったころで戦争を予防する知恵にはならない。

 それは、「頑張れば神風が吹く」と信じた念力主義と同じだ。

 むしろ怖いのは、「悲惨だから戦争しないように」という認識で溜飲を下げてしまい、思考停止のまま、個人の日常を送れればいいや、と思うことだろう。
 そのあたりが完全な平和ボケだってことを自覚する必要がある。

 いや、それ以上に「戦争反対」という誰も否定できないような正義を振りかざしたまま、国民の多くに結果的に思考停止状態を続けさせるリスクのほうが、よっぽど怖い。

 マスメディアは顧客を手放したくないから、「戦争反対」「原爆反対」の正義に乗っかる。
 安倍・自民党総裁は、自民党の選挙勝利に障害になるような人材は早期に粛清する。

 それほど民意がこの「戦争反対」という大正義の前にひれ伏してしまっている状態は、空気によるファシズムが既にデフォルトになっているようで、とっても怖い。

 そう感じるのは僕だけだろうか?

 1981年に出版された『新戦争論』(小室直樹・著/光文社)という本がある。
 副題は「平和主義者が戦争を起こす」だ。

 国際紛争では、多国間交渉の破綻、経済制裁の破綻を経て、それ以外にどうしようもなくなった時に戦争という手段が選ばれてきた。

 前掲書によれば、「戦争は戦争以外に国際紛争を解決する手段が発明されない限り、可能性として残り続ける」ことになる。

 誤解されがちなことだが、武力があるから戦争が起こるわけではないし、起こせるわけでもない。

 上記のプロセスで多くの紛争は戦争を迎えずに済んでいるが、これまでの歴史から学ぶなら、「戦争以外の解決手段を発明すること」そのものが本来の反戦運動なのだ。

 日本人なら、北朝鮮との関係を思えば、少しは理解できるだろう。
 経済封鎖をしたところで、それがザル法であれば、残りは戦争しかなくなってしまう。
 だからこそ、そこで思考停止ではいられないはずなのだ。

 だから、「戦争反対!」と叫ぶよりも、もっとトラブルの元になるようなことを予防するほうがマシ。

 たとえば、これは冗談抜きに面白いと思ったのだが、Rebel Blueというバンドには「世界混血児計画」という歌があり、「まぜればいいんだ」と絶叫している。

 これはこれで国際的な交流が進んでいる現在では、長い目で見れば、実効性のある一つの方法かもしれない。

 各国に2重国籍や混血児が1国内の半数以上に増えれば、自分の所属する国はもちろん、敵対国に対して血を流すような手段以外について考える契機にはなる。

 また、インターネットのように疑似的な関係をリアルなものとして受け止める世代が出てくれば、そもそも国家単位での紛争に対するバカバカしさが増し、1国に所属しているリアリティも薄まることも期待できる。

 ただ、現状では、日本のマスメディアが既に啓蒙の役割を放棄し、「より多くの人が支持する論調」引っ張られてしまっていることが、嘆かわしい。

 もっと冷静でないと、まるでファシズムのような空気がデフォルトになっていいくだろうし、それはまさに「平和主義者が戦争を起こす」構図を自家中毒的に作っていくことにもなりかねない。

 「戦争反対」で思考停止せず、マスメディアの一辺倒な論調を疑う構えを持つこと。
 今こそ、メディアリテラシーを覚える時代なんだろうと思う。

 被ばく県の市民が「あの大臣の発言は許せない!」なんて言う映像をこれ見よがしに報道しているテレビ番組を見たら、「このニュース番組のディレクターも思考停止なんだな。局Pに『余計なことは考えるな』と言われて支配されているんだな」と気づいてほしい。

 局内のプロデューサの言うがままに、顧客獲得のために安い正義を売るメディアこそ、愚弄すべきなのだ。

 マスメディアにあるプロデューサとディレクターの支配関係とか、読者(顧客)と記者の支配関係とか、そういう日常の次元における関係の内実に対して、より自由な立場で発言できるようにしておくことも、戦争を予防する知恵の一つだろう。

 そして、その知恵にはそれなりに勇気が問われるのだ。
 なんたって、多くの人の「正義」に真っ向から向き合う必要が出てくるからだ。

 「1対多」の喧嘩をする勇気、自分の中の良心を守る気持ち、自尊心を高める努力…。
 僕らには個人的に戦争を予防する多くの学びが必要とされているんだろうと思うよ。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

ひきこもり支援とは自ら「先ゆく仲間」になること

 昨日は、東大自主ゼミだった。
 ゲスト講師には、「こわれものの祭典」代表の月乃光司さんと、5年間のひきこもり生活から脱出して上京して1か月の市野善也さんを招いた。

 ゼミ終了後、僕には心の残尿感のような感じが残った。
 なんというか、モヤモヤした感じだ。

 たぶん、市野さんが言った一言が引っ掛かっているのだと思う。

「ひきこもりは誰も悪くない。誰にも責任がない。
 そう思ったほうが楽になれる」

 彼は、そう言った。
 そうだろうか?

 市野さんの表情には「楽になった」印象が感じられなかった。
 しかも、彼が上京1か月で辞めた新聞配達の日々を綴ったmixi日記では、「自爆テロのことばかり考えていた」ともあった。

 月乃光司さんは自助グループに初めて行った際に、そこにいるおじさんたちが、とんでもなくその人自身の恥ずかしい話をしゃべるので、自分の話が言いやすかったと言った。

 僕のゼミでは当事者性を大事にしているので、「当事者がそういうのであれば、そうかもしれない」という構えで、あくまでも当事者の立場に立った理解をしようと努めるようにしている。

 その点で、月乃さんの体験は素直にうなづけるものを持っている。
 しかし、市野さんの言葉には、どこか自身の体験を他人事にしているような構えを感じざるを得なかった。

 ちなみに、僕自身はひきこもりをするという行為そのものは否定しないし、そういう時期が誰にでもあると思う。

 しかし、自分がそういう行為を求めていると自覚してひきこもるのと、自分で求めてそうしていることを自覚しないのとでは、大きく意味が違うように思う。

 自分の意思を自覚しているのであれば、自分の代わりに親が嫌な労働をしてくれた金で食わしてもらっているという負い目を感じるだろうが、自分の意思を自覚していなければ、自分の引きこもり生活が親に負担を強いていることに思い当たらないだろう。

 総論でいえば、ひきこもりは本人に責任や問題はほとんどないと言っていい。
 なぜなら、子どもに飯を与えられる程度の資産がある親のいる家庭でしか、ひきこもりは出来ないからだ。

 つまり、親が「出ていけ」といえば、ひきこもることができなくなるのだから、わが子のひきこもり生活を苦々しく思ったならば、その時点で家の外に追い出せばいいだけの話だ。

 言いかえるなら、「ひきこもる・ひきこもらない」という選択の自由はそもそも子どもにはなく、本来はその自由が「稼ぐ技術」の習得によって得られることを誰にも教えてもらえないまま、死にたくなるほどの「ペットの自由」を満喫させるのが、ひきこもりというものの正体なのだ。

 しかし、わが子が自分で飯を食うだけの技術を親として十分に身につけさせたという自信のない親は、「追い出しても食えないからホームレスか犯罪者になるか、自殺するんじゃないか」という不安を家庭内に押し込めて、家の外には「恥ずかしくて」相談もせず、何年も経つ頃には嫌な現実を見たくないばかりに放置を決め込んでしまう。

 そうなると、子どものほうは、それまで親の金という鎖につながれたペットよろしく、鎖をほどかれることを恐れてしまう。
 腐りをほどかれて「お前は自由だ」と言われても、自分で飯を調達できるだけの「稼ぐ技術」がないのだから、とまどうしかないからだ。

 こうしてみると、ひきこもりは、共依存(イネイブリング)の親がいなければ、成り立たない行為だってことがわかると思う。

 共依存というのは、自分の虚しさやさみしさ、無力感などを払拭するために自分より弱い存在を見つけては「私がいなきゃダメでしょ」と思わせて依存させることでコントロールし、延々と相手を弱者のままにすることで自分自身の存在価値と強者の立場を守って安心しようとする倒錯した支配欲求のこと。

 この共依存の親の下で子どもは、あたかも自分が自分の意志で引きこもっているように思わされてしまう。

 本当に自分の意志で引きこもっているのであれば、自分の意志で引きこもりを辞めることもできるはずなのだが、共依存の関係を続けていると、この共依存という心性は感染してしまうのだ。

 感染すれば、あたかも鎖で繋がれたペットよろしく自分の意志や自由は奪われ、「どうせ俺は親元でしか暮らせない。家の外はきっと怖いのだ」と無根拠に信じてしまうし、それを裏付けるような失敗体験をすることでますます共依存の度合いを深めていく。

 すると無力感が増し、うつ病にもなるだろう。
 でも、親は気付かない。

 市野さんが上京後も「自爆テロのことばかり考えていた」のも、きっと家の外でどう立ち振る舞えばお金に結び付くのかを親に教えられてこなかったからだろうし、彼の親も「親の仕事は親がいなくても生きていけるだけの稼ぐ力をつけさせること」だと思い当らなかったか、あるいはそういう自立する力がそもそも無い親だったのかもしれない。

 ゼミ生に「市野さんは今週いっぱいで新聞配達所の寮を出ていかなきゃいけない。今後どうすればいいと思う?」と尋ね、知恵を乞うた。

「ゲストハウスはどう?」
「貯金は?」
「友達の家に居候させてもらったら?」

 ゼミ生たちは、順当な質問を市野さんに問いかけた。

 もちろん、市野さんはゲストハウスを探していたし、貯金は親から借りた20万円が残っていると言った。
 月乃さんは「一度、名古屋に戻って仕切り直せば?」と言った。
 
 いろんな選択肢はあるだろう。
 しかし、すべては市野さん自身が決めるのだ。

 僕は、「ひきこもり支援をしたい」という市野さんの言葉に、生活実感があまり感じられないのが気になった。

 20万円しかないのであれば、今すぐにでも時給単価の高い仕事を探さないと、1か月後には完全に干上がってしまうだろう。
 考えるより、フロムエーでも買って探し、アポをとり、面接を受けまくる以外にないではないか。

 そこで親からの借金に頼ってしまったら、きっと彼は友達のありがたみに気付けないかもしれない。

 持つべきものは、友である。
 家の外では、みんな助け合って生きている。
 彼が学ぶべきは、そこだろう。

 ゲスト講師には毎回、自分の人生年譜を書いてメールで僕に送ってもらうことになっている。

 しかし、市野さんは「ネット環境がない」というので、「近所のマンガ喫茶で書いたら?」と言ったのだけど、「ない」というので、彼と僕の共通の友人である山本さん(NPOコトバノアトリエ代表理事)にパソコンを貸してもらえば、とも言った。

 結局、市野さんは山本さんに電話することもなく、「パソコンを貸してもらえる当てがない」と僕に電話してきたので、千葉の田舎にある僕の家まで来てくてもらい、書いてもらったのだけど、僕は「うーむ」とうなってしまった。

 市野さんが頼めば、パソコンくらい誰でも貸してくれただろうと思うのだけど、どうも「こっちへおいで」と誘わない限り、自分からは頼まない感じがあるのだ。

 彼は、その受け身の姿勢のままで自分のやりたい仕事につけるだろうか?

 自分のやりたいことを実現するために、人に相談することさえもできないのが、ひきこもりを経験した後遺症のようなものなんだろうか?

 共依存の恐ろしさが、そこにはあるように見えた。

 ひきこもりという長い奴隷生活の中で、「助けてほしい」と自分の意志を表明しても、どうせ応じてもらえないという刷り込みが彼にはあるのだろう。
 だから、自分の意志を表明すること自体をあきらめる条件反射が身についてしまったように見受けられた。

 彼のせいではないのに、家の外では自己責任が問われてしまうのだから、生きずらいだろうし、とまどうのも仕方がないだろう。

 ただ、親からのコントロールから自力で脱出したいのであれば、親からの借金を増やさず、友達からの優しい視線に気づくことだろう。

 自分のしたいことを望めば、そして、それが本気なら、みんな親身になって一緒に考えてくれるものだ。
 そのような付き合いを市野さんは経験してこなかったのだろう。

 では、押しかけ女房のように、彼の煮え切らない気持ちを先回りしてお膳立てすればいいかといえば、それも違うだろう。

 市野さんがしたいことは、ひきこもりへの支援だそうだ。
 それは、何度も彼自身の口から出てきた言葉だ。
 だが、支援されるべきは、他の誰でもなく、明らかに彼自身だろう。

 市野さんはまず自分自身の生活を自分の手で成り立たせることを支援する、つまり自立するという試みから逃げないことが、月乃さんのような「先ゆく仲間」になることだろう、と僕は思った。

 ひきこもりを支援したいのであれば、ひきこもりから自立し、「僕のようになれます」という姿を見せることではないか、と。

 つまり、自分自身の問題に取り組むことが、他のひきこもり当事者に勇気を与えることであり、得体の知れない「社会問題」を可視化して解決する方法なのだ。

 そして、自分自身の問題に取り組もうとするとき、彼は友達とその切実さを共有でき、友達からの支援を取り付けることができるように思う。
 だから、僕はゼミで言った。

「市野さんが本気で『僕は東京に残りたいんだ』という気持ちを示してくれたら、僕はしばらく家に置いてもいいと思うよ」

 ゼミ終了後、喫茶店に入ると、市野さんの持参した彼の著作を買い求めるゼミ生が続出した。
 「手売りじゃもったいない」という意見も聞かれた。

 少なくともゼミ生は市野さんの本に価値を感じているから、お金を出したのだろうし、ゼミ生はmixi内のゼミのコミュの住人だから、市野さんが声をかければ、出来る範囲の支援は惜しまないだろう。

 それだけを見ても、市野さんは孤軍奮闘を余儀なくされているわけではなく、支援されていることがわかる。
 その客観的な事実についてどう感じるのかは、市野さんに突き付けられている問題かもしれない。

 いずれにせよ、今週末、彼は自分の処遇を決めることになる。
 ひきこもりからの脱出は、始まったばかりなのだ。

 自費出版とはいえ、市野さんには本を1冊書いた経験があるので、ひきこもりについて取材して雑誌に記事を発表して金を得ることもできるだろうし、自費出版した本を再編集して商業出版社から新たに刊行してい印税を得ることもできるだろう。

 「ふつうの人」は、まるごと1冊のボリュームの原稿なんか書けない。
 それを無理せず書いて、出版社に売り込んだだけでも、市野さんには書く仕事で食っていける資格があるのだ。

 しかも、5年でひきこもり生活から離脱できたとすれば、その経験について「講演依頼.com」などのサイトに登録し、1回20万円程度に設定していけば、3割ピンハネされても1日で14万円程度の収入になる。

 あるいは、ひきこもりを特集したことのある雑誌に売り込みに行ったり、月乃さんのように地元の新聞での連載を売り込むことも収入源を増やすヒントになるだろう。

 市野さんは「ひきこもり期間は何にもやっていない」と自分史に書いたけど、「ひきこもり」という一般人にはなしえない特別かつ固有の価値のある経験をしていたわけだ。

 それが売り物になることを、ぜひ「先ゆく仲間」である月乃さんから学んでほしいと思った。

 ちなみに、月乃さんの朗読する詩は素晴らしく、音源化されたCDの出来も素晴らしいので、メジャーレコード会社に僕が代行して売り込むことも、ゼミの前に月乃さんと約束した。

「フジロックに出たいですね」

 そう言った月乃さんの夢を一緒に叶えたいと思う。
 人生はダメモトだ。
 やりたいことを表明すれば、「それいいね!」と言ってくれる友達が必ず出てくる。
 だめもとで言い続けておけば、道は開ける。

 市野さんの場合、ひきこもり経験を武器に有名人との対談集だって企画できるだろうし、元ひきこもりの経験者で集まって知恵を出し合えば、ひきこもっている当事者向けのサービスを事業化するとも可能かもしれない。

 こういう知恵も、自営業者であれば、少なからず持っている。
 だからこそ、友達は大事なのだ。

 資本主義とは、「求めよ、さらば与えられん」という社会だ。
 自分が本気で求めれば、それは得られる。
 自分が求めないままなら、欲しいものは得られない。
 市野さんには、そういう「家の外」の原則やルールを知ってほしい。

 自由主義社会では、自分が欲しいものを得る方法そのものも自由に選べるということなのだから、勘違いの自爆テロなんか考えている場合ではないのだよ。

 味方はいっぱいいる。
 ぜひ、それに気づいてほしいと思う。
 市野さんは、決して孤独ではない。


テーマ:働くということ - ジャンル:就職・お仕事

自営業者は多角経営をめざす

 拙著『親より稼ぐネオニート』についてのブログをたまに検索エンジンで見ている。

 すると、「これは誤読しているな」と思われる若い人のブログにたまに出くわす。

 そもそもこの本では、ニート生活の長い若者に対して、「雇用の可能性の貧しさを嘆いてもしょうがない。むしろ雇用されずに自営の道も早めに考えておこう。自営しか生き残れなくなる前に」という趣旨で書かれたもので、ネットビジネスに特化した話ばかりを書いているのではない。

 雇用がダメなら自営しかない。
 そんな当たり前のことを言うにも、「自営」を勇気を必要とするものだと誤解している人は多いから、テリー伊藤さんの造語「ネオニート」に乗っかって、ネオニートのあり方を自営へのプロセスとして描いているにすぎないのだ。

 そして、自営業者が、雇用とは違って、本業から派生した他のビジネスも同時に行うことで人並みの収入を得ていることにも触れている。
 しかし、それを忘れてアフィリエイトだけで大金を得ようとしたり、デイトレで何とかしようする読者がいるのには、正直呆れる。

 自営業者の多くは、本業以外の収入を含めて食っているのだ。
 有名作家でも、本の執筆だけで食っている作家は少ない。

 有名になれば、講演の依頼が来たり、雑誌の対談記事に呼ばれたり、テレビに出演したり、広告に登場するなどして、他の収入が増える。
 いや、有名性を活かして、他の収入を何とか増やしている、と言ったほうが実情に即しているだろう。

 僕にしても、雑誌の記事や本を執筆するという本業以外に、そのノウハウを別に活かす形で他の人の本を編集したり、テレビ番組を企画制作したり、広告ディレクションやコピーライティングをしたり、講演やコメントの謝礼をもらったり、最近ではIT系の会社と組んで新たなwebサービスに参加したりと、いろいろやって食っている。

 なんで、そんなふうに器用にあれこれできるのかと言えば、「上を見ない」からだ。

 自分より仕事の出来る人は腐るほどいる。
 でも、彼らと比べたりはしない。
 むしろ、自分にもできそうなことを考える。

 雑誌のページをめくっていれば、「こんな記事、俺のほうがよく知っているし、もうちっとはマシに書けそうだ」と思われるページが必ずある。

 なぜかといえば、誰でも書けそうな記事を書いて食っている「よろずライター」の記事には深みがないからだ。
 僕自身、20代後半の頃はそんな「100円ライター」だった。
 つまり、代えが利く(=僕でなくてもいい)記事ばかり選んで書いていたからだ。

 そういう「100円ライター」の仕事は、特別な技能も知識も必要としない。
 なんたって、僕なんぞ自動車免許すらもってないのにF1についてのインタビューを今宮純さん(※F1ジャーナリスト)にしたことがあるくらいだから。

 そういう記事は特集記事に多い。
 …ってことは、自分がそのページを企画すれば、もっとマシな原稿になる可能性があるってこと。
 その程度の自信があれば、あとは企画書を書いて出版社の編集部にアポとって行けばいいだけだ。

 同じような売り込みはテレビにもいえる。
 テレビ番組の多くは下請けのプロダクションが制作しているわけだから、都内のプロダクションを探して企画書を持参すればいい。

 このように、企画を自分で作り、ダメモトで売り込み(営業)をやって、記事や番組を制作し、納品し、入金を待つという一連の流れを自分でやるのが、自営業者なのだ。

 実際、儲かっているネットビジネスの担い手も、アフィリエイトの他にせどりやネット通販など複数の収入手段を持っているし、収入手段そのものを新規開発していくことが自営業者にとって必要な多角経営だと理解している。

 僕は物書きだから、本を出したら宣伝まで自分でやるし、印税だけを当てにするのでなく、その本の内容で講演ができるようにあらかじめ講演に招きたくなるような内容にしておくくし、講演に呼んでくれそうな団体に本を郵送する。

 そのためには、200冊くらい自分で自著を買うし、出版社側に郵送代を負担させ、200冊の献呈リストを作って編集部にメールしておく。

 そうやって自前で宣伝しないと、たいていの出版社の営業部はほとんど宣伝を打たないのだから、売れるはずもないのだ。

 このように、自営業者には宣伝する資金的体力も必要になる。
(もっとも、本の場合、印税入金時にその経費を相殺すればいい)

 もっとも、出版業界は「売る技術」について他業種より断然低い。
 著者が200冊程度買ったところで営業部から挨拶されることもないし、「無料イベントをやろう!」と呼びかけても営業部から「やり方がわからない」と一蹴されることさえ普通にある。

 こっちにはイベントをやるくらいのノウハウはあるのだが、そもそも著者と組んで売ろうという姿勢が出版社の営業部にはないし、本の内容をふまえて、その読者に直販していくという営業スタイルも(専門書以外は)ないに等しい。

 まぁ、それでも本屋に行けば、「この程度の本なら僕でも書けそう」という内容の本がいくらでも見つかる。
 そう思ったら、書いてみるしかない。

 少なくとも、書いてみれば、自分が「この程度」の原稿を書けるかどうかが、はっきりする。

 もちろん、自分の中の理想が高ければ、「この程度」レベルでは発表したくないわけだけど、食うためには程度を下げても、そこそこ合格点になる本をとりあえず出版するしかない。
 完璧な本を目指しても、食えないだけだから。

 なので、僕は新刊企画書をA4用紙で2枚程度書き、原稿を一切書かないまま、編集者にプレゼンしている。
 編集者の感触が良ければ、書き始める。
 原稿が全部出来上がっても、直しに時間がかかれば、食えない期間が伸びるだけだから。

 資本主義とは〆切である。
 期日までに入金が欲しいなら、先手を打ち、時間を大事にすることだ。
 もっとも、それだけの切実な現実を自分で認めるかどうかが、ネオニートとして食える自営業者に成長していくのに必須なことなんだろう。

テーマ:知っておいて損はない!! - ジャンル:ビジネス

プロフィール

今一生 con isshow

Author:今一生 con isshow
 ライター・編集者。
 '97年「Create Media」名義で編集した『日本一醜い親への手紙』がベストセラーに。
 '99年に発表した『完全家出マニュアル』で造語した「プチ家出」が流行。
 著書に『ゲストハウスに住もう!』(晶文社)、『下流上等』(学事出版)、『「死ぬ自由」という名の救い』(河出書房新社)など多数。
◎公式サイト
◎今一生の本

カテゴリー

リンク

■ゲストハウスに住もう!
■ネオニートへの道
■クスリをやめたいあなたのために

■ミス御隠居の無責任日記
芸能時事ネタで笑えるのほほん日記。


■ご機嫌公論
ライター&エディターのロイ渡辺くんのブログ。


■バルセロナの日本人女性
”バルセロナ嫌い”なのに在住7年――英語翻訳家のちょっとハイソ な日常を英語バイリンガルでお届け。


■インドで豆腐屋になろう!
豆腐屋の娘でも無いのに、東京で豆腐屋修行するちべまろさんのブログ。



■レンタル空手家
ひきこもりや精神的に弱い人の自宅や近所に出向いてくれる空手家のブログ。



■世界の片隅から、映画を観る。
心動かされた映画を紹介するまこと(仮名)さんのブログ。



FC2ブックマークに追加

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。