原爆投下について「しょうがない」と発言した大臣がクビになった。
一国の大臣が問題発言ごときで辞任しなければならないのもどこか
変な気がするが、被ばく県の出身の代議士のいう「しょうがない」には、被ばくした家族や親族、地域の人々を愚弄する気持ちなど、あろうはずがない。
(そんな気持ちがあるようなら、そもそも当選してないだろう)
しかし、少なくとも最初の原爆投下によって「一億総玉砕!」(国家心中)を国民に強いてきた軍部の戦意を決定的にくじいたのは、おそらく歴史的事実だろうし、それが加害者であるアメリカの「正義」であろうとも、にわかには否定できない側面を持ってはいるように思う。
ところが、今回の辞任騒動を観ると、そうした冷静さはマスメディアから一掃されており、代わりに被爆地の市民からバッシングさせる映像をテレビで流したり、新聞すらも辞任を当然のものとしている。
たとえば、読売新聞の
「編集手帳」には、こうあった。
◆サッカーの日本代表監督イビチャ・オシム氏の言葉を思い出す。祖国・旧ユーゴスラビアで内戦を経験した。戦争から学んだこともあったでしょう? 氏は答えている。たとえあっても、あったとは言わない。「何かを学べた意義を認めてしまえば、戦争が必要なものになってしまう」と
◆原爆投下も同じだろう。戦争を終結に導いた意義を被爆国の側で少しでも認めてしまえば、「必要なもの」として歴史に再登場するのを許すことにもなりかねない。「しょうがない」に潜む危険である
こういう一見、まともに見える論調ほど怖いものはない。
ここには、戦争がなぜ遠ざけるべきものなのかが説明されていないからだ。
「え? 戦争は誰が見てもダメなもんでしょ。
悲惨なことだから否定するのが当たり前でしょ」
そう思う向きも少なくないだろう。
しかし、戦争がどんなに悲惨でも、どれほど悲惨ぶりがわかったころで戦争を予防する知恵にはならない。
それは、「頑張れば神風が吹く」と信じた念力主義と同じだ。
むしろ怖いのは、「悲惨だから戦争しないように」という認識で溜飲を下げてしまい、思考停止のまま、個人の日常を送れればいいや、と思うことだろう。
そのあたりが完全な平和ボケだってことを自覚する必要がある。
いや、それ以上に「戦争反対」という誰も否定できないような正義を振りかざしたまま、国民の多くに結果的に思考停止状態を続けさせるリスクのほうが、よっぽど怖い。
マスメディアは顧客を手放したくないから、「戦争反対」「原爆反対」の正義に乗っかる。
安倍・自民党総裁は、自民党の選挙勝利に障害になるような人材は早期に粛清する。
それほど民意がこの「戦争反対」という大正義の前にひれ伏してしまっている状態は、空気によるファシズムが既にデフォルトになっているようで、とっても怖い。
そう感じるのは僕だけだろうか?
1981年に出版された『新戦争論』(小室直樹・著/光文社)という本がある。
副題は「平和主義者が戦争を起こす」だ。
国際紛争では、多国間交渉の破綻、経済制裁の破綻を経て、それ以外にどうしようもなくなった時に戦争という手段が選ばれてきた。
前掲書によれば、「戦争は戦争以外に国際紛争を解決する手段が発明されない限り、可能性として残り続ける」ことになる。
誤解されがちなことだが、武力があるから戦争が起こるわけではないし、起こせるわけでもない。
上記のプロセスで多くの紛争は戦争を迎えずに済んでいるが、これまでの歴史から学ぶなら、「戦争以外の解決手段を発明すること」そのものが本来の反戦運動なのだ。
日本人なら、北朝鮮との関係を思えば、少しは理解できるだろう。
経済封鎖をしたところで、それがザル法であれば、残りは戦争しかなくなってしまう。
だからこそ、そこで思考停止ではいられないはずなのだ。
だから、「戦争反対!」と叫ぶよりも、もっとトラブルの元になるようなことを予防するほうがマシ。
たとえば、これは冗談抜きに面白いと思ったのだが、Rebel Blueというバンドには「世界混血児計画」という歌があり、「まぜればいいんだ」と絶叫している。
これはこれで国際的な交流が進んでいる現在では、長い目で見れば、実効性のある一つの方法かもしれない。
各国に2重国籍や混血児が1国内の半数以上に増えれば、自分の所属する国はもちろん、敵対国に対して血を流すような手段以外について考える契機にはなる。
また、インターネットのように疑似的な関係をリアルなものとして受け止める世代が出てくれば、そもそも国家単位での紛争に対するバカバカしさが増し、1国に所属しているリアリティも薄まることも期待できる。
ただ、現状では、日本のマスメディアが既に啓蒙の役割を放棄し、「より多くの人が支持する論調」引っ張られてしまっていることが、嘆かわしい。
もっと冷静でないと、まるでファシズムのような空気がデフォルトになっていいくだろうし、それはまさに「平和主義者が戦争を起こす」構図を自家中毒的に作っていくことにもなりかねない。
「戦争反対」で思考停止せず、マスメディアの一辺倒な論調を疑う構えを持つこと。
今こそ、メディアリテラシーを覚える時代なんだろうと思う。
被ばく県の市民が「あの大臣の発言は許せない!」なんて言う映像をこれ見よがしに報道しているテレビ番組を見たら、「このニュース番組のディレクターも思考停止なんだな。局Pに『余計なことは考えるな』と言われて支配されているんだな」と気づいてほしい。
局内のプロデューサの言うがままに、顧客獲得のために安い正義を売るメディアこそ、愚弄すべきなのだ。
マスメディアにあるプロデューサとディレクターの支配関係とか、読者(顧客)と記者の支配関係とか、そういう日常の次元における関係の内実に対して、より自由な立場で発言できるようにしておくことも、戦争を予防する知恵の一つだろう。
そして、その知恵にはそれなりに勇気が問われるのだ。
なんたって、多くの人の「正義」に真っ向から向き合う必要が出てくるからだ。
「1対多」の喧嘩をする勇気、自分の中の良心を守る気持ち、自尊心を高める努力…。
僕らには個人的に戦争を予防する多くの学びが必要とされているんだろうと思うよ。